平安貴族もその風流を楽しんだ宮中行事からはじまった
「七夕の節句」天の川がひときわ明るく美しく見える夏の夜空。1200年前の平安時代にも、同じ空を見上げて「七夕」を祝う雅な貴族たちがいました。世は移ろい、「七夕」が庶民のものとなって現代に伝えられてもなお、星に願いを込める日本人の心は変わらぬままなのです。
季節感を味わう五節句のひとつとして
幼い日、つたない字で短冊に願いごとを書き笹に結びつけた……。私たち日本人の多くが、そんな七夕の思い出を持っていますね。もちろん大人になってからも、七夕まつりに出かけたり願いごとをしたり、七夕を楽しむ機会はたくさんあることでしょう。では、日本で七夕行事が行われるようになったのは、いつのことだったのでしょうか。平安時代には、七夕は五節句のひとつとして宮中行事になっていました。
五節句とは、唐代の中国から伝わった暦法による「季節の変わり目」が日本の農耕の風習と合わさって、決まった日に宮中行事が催されるようになったもの。今も日本人には馴染みがあります。具体的には、1月7日の人日(じんじつ)の節句に七草がゆを食べ、3月3日の上巳(じょうし)の節句はひなまつり、5月5日の端午(たんご)の節句は子どもの日。7月7日の七夕(しちせき)の節句が七夕、そして9月9日の重陽(ちょうよう)の節句では菊を愛でます。
宮中行事としての七夕は、桃や梨、なす、うり、大豆、干し鯛、アワビなどを供えて星をながめる風流なものだったようです。香を焚いて楽を奏で、詩歌を楽しむという、まさに雅な宴。サトイモの葉にたまった夜つゆを天の川のしずくにたとえ、それで墨を溶かし、古くから神聖な木とされてきた梶の葉に和歌を書いて願いごとをしました。
江戸時代には幕府が五節句を公的な祝日として定め、一般の人々にも広まって日本の四季を彩る行事として定着。七夕も全国的に行われるようになり、野菜や果物を供えて詩歌や習いごとの上達を願う庶民的なものとなりました。梶の葉に詩歌を書く代わりに、短冊に願いごとを書いて笹に吊るすようになったのもこの頃です。宮中行事から庶民の楽しみへ。これからも日本の七夕は、親しみ深い行事として脈々と続いていくことでしょう。